冒頭:AIは情を持たぬ。だからこそ、戦に向いておる
――織田信長、令和の企業にて「判断基準が属人化してます」と耳にする。
ワシ:「ふむ。つまり“誰が決めるか”によって、結果が変わるのじゃな?」
部下:「はい…A課長だとOKで、B課長だとNGでして…」
部下:「しかも毎回、過去の判断は記録されておらず…」
部下:「なので、また同じことを訊かれて…」
これは戦国にて申せば――
“昨日は通れた関所が、今日は通れぬ”という無法の世と同じ。
第壱章:“情で回る組織”の不安定さ
今の世に多いのは、こんな判断の姿じゃ。
- 「上司の機嫌」で結論が変わる
- 「なんとなく通った案件」が、あとで火を噴く
- 判断基準が暗黙の了解、しかも毎回ズレる
- ログがなく、「誰がいつ何を決めたか」が霧の中
これでは、部下は思考停止。組織は再現性を失う。
まさに、**“感情ドリブン自治領”**じゃ。
第弐章:比叡山焼き討ちと、非情の決断
信長とて、情がなかったわけではない。
じゃが、あのとき――延暦寺(比叡山)が敵に通じ、足軽まで討たれた。
僧兵が兵糧を断ち、通行を拒み、密書を運ぶ。
寺であっても、戦場に身を投じた時点で、それは敵と見なす。
「比叡山は焼く。法ではなく、兵として見よ。」
そう決めたのは、“感情”ではなく、“条件”による判断じゃ。
- 敵に通じれば、排除
- 兵糧を断てば、討伐
- 再発を防ぐには、記録と見せしめが要る
非情に見えて、そこには 明確な判断フローと、再現性 があったのだ。
第参章:AIと“決断の型”をつくれ
今の時代、AIは“非情の器”である。
だが、それが良い。
- 一貫性を保ち
- 感情に左右されず
- 「過去の判断ログ」も残す
これこそ、組織に必要な**“焼き討ちの精神”**ではないか。
「誰が決めるか」ではなく、
「どう決めるか」こそ、天下布武の要なり。
あとがき:人の情は、指針にはならぬ。フローに従う組織が勝つ。
情に厚き者が、良き主とは限らぬ。
部下の顔色を見て決断を曲げる者は、ただの八方美人よ。
「情で回すな。情を受け入れぬ仕組みを、情のある者が作るのじゃ。」
AIを使うとは、
感情を捨てることではない。
“人が判断しなくても済む局面を増やす”ことなのじゃ。